三木楽器の歴史
三木楽器の歴史
MIKI GAKKI 200th 三木楽器創業200周年に向けて 時代を、国を、世代を超えて
三木楽器は2025年に創業200周年を迎えます。
皆様に支えられ共に歩んだ、これまでの歴史をご紹介します。
文政8年
1825
三木楽器のはじまりは
「書籍業」でした
三木楽器の前身は江戸時代の1825年(文政8年)、大阪で書籍商として勢力のあった河内屋総本家から分家独立した「河内屋佐助」の貸本を主とする書籍業を祖としています。
1888
明治21年
山葉(ヤマハ)オルガンの西日本売捌所として楽器創業
1859年、農家出の友吉が8歳にして「河内屋佐助」に奉公しました。日本が新たな時代を迎える少し前の事です。友吉は時代のニーズを敏感に感じ取りそれを商売に転ずる商才に長けていました。
商売熱心が認められ友吉は1884年に河内屋佐助の家督を継いで、四代目佐助となり、ヤマハの創業者 山葉寅楠は佐助の商才を見込んで自ら開発したリードオルガンを販売する西日本の元締めを依頼しました。これが三木の楽器創業となります。(「三木」姓は初代佐助の郷里の姓)
ヤマハ創業は1887年、三木の楽器創業は1888年
4代目佐助
1900
明治30年
合唱の練習書「コールユーブンゲン」
「鉄道唱歌」出版がヒット、音楽講習会を実施
「汽笛一声新橋を~」で始まる「鉄道唱歌(てつどうしょうか)」は今でも有名ですがこの鉄道唱歌を巧みなマーケティングでヒットさせたのは三木佐助です。これ以外にも「日本俗曲集」や「帝国軍歌」など音楽関連出版事業も順調に伸ばしました。また、今でも合唱の練習書として使われる「コールユーブンゲン」の翻訳権を取得し、出版したり、「関西音楽講習会」を実施するなどハード・ソフト一体の活動を展開しました。
1900
明治30年
オルガンからヴァイオリン、ピアノ、他楽器まで品揃えを拡大
山葉オルガン販売開始の翌年には当時国産化成った鈴木ヴァイオリンの販売も開始、そしてヤマハのピアノ生産開始(1900年)に伴いピアノの販売、更にはクラリネット・トロンボーンなど管楽器の販売も開始しました。
1921
大正10年
スタインウェイピアノ総代理店へ (戦前)
日本で西洋音楽が隆盛になるにつれ欧州留学生も増え舶来楽器への需要も増大した事から、三木では1921年、当時名声の高かったスタインウェイの日本総代理店となって同ピアノの販売に取り組みました。
1923
大正12年
創業100年を目前に本店ビルを建築、3階にホールを開設
1923年末には木造だった本店を地下1階地上4階のモダンな鉄筋コンクリートのビルに建て替え、その3-4階にホールを開設、翌1924年1月より利用に供しました。
翌1925年は初代佐助の創業から100周年にあたり、これを機に書籍の屋号であった河内屋玉淵堂を変更、合名会社とし新社名は「大阪開成館三木佐助商店」としました。こうして江戸末期から明治の激動の時代に一介の奉公人から身を起こし店を立て直し見事に時代に対応し経営してきた四代目佐助は新会社・新本店ビルの完成を見届けるかのようにして1926年に亡くなりました。
三木楽器本店ビル(開成館)
三木楽器の記録
音楽家との交流と音楽書籍の発行
山田耕筰作曲講座
(昭和7年~11年まで続いている)
山田耕筰を囲んでの食事会
四代目佐助は日本を代表する音楽家・作曲家の山田耕筰とは彼がベルリン留学から戻った1914年より佐助が亡くなる1926年まで手紙のやり取りがあり、また耕筰が関連する書籍を三木楽器大阪開成館にて分かっているだけでも10点発行しています。
山田耕筰はまた、三木本店ホールを使って「西洋音楽講座」「作曲講座」などを連続して行いました。「海ゆかば」で知られる信時潔とは先に述べたコールユーブンゲンの翻訳を依頼した他分かるだけで10点を三木佐助又は大阪開成館より発行しています。他に「浜辺の歌」で有名な成田為三や、永井幸次などとの交流の中で名著を次々と発行しました。
1929
昭和4年
当時の三木ピアノカタログと三木ピアノのパンフレット
三木オルガン、ピアノの誕生
ヤマハとの良好な関係はヤマハの創業者山葉寅楠の物故(1916年)後も続いていましたが、1922年のヤマハ工場火災、関東大震災、1925年の日本楽器(ヤマハ)の労働争議等により生産力の低下をきっかけに関係を見直さざるを得なくなり、 後任社長の方針に疑問を感じてヤマハを退社した天才技術者河合小市が興した河合楽器にオルガン・ピアノの製造を委託し、1929年より三木のブランドでの販売を開始しました。(当時は河合は創業間もなく知名度があまりないため、三木の名が通りが良いと判断)その後、河合楽器と1930年に関西総代理店契約を結びました。1937年にはピアノの総販売台数が800台を超えたとの記録が残っています。
1940
昭和15年
当時の三木楽器本店ビル
戦争と三木楽器
1937年までは右肩上がりであった三木楽器の業績も戦時に突入するとともに変調を来たし、1940年ではピアノの総販売数は前年比でわずか13%の51台となりました。1945年3月の大阪大空襲では船場から難波にかけて大火災が起きましたが、三木本店ビルはコンクリート造だったので火災は免れ、近所の住民の避難場所にもなりました。
昭和後期
1950
戦後の高度成長期とピアノブーム
戦後は復興と高度成長でピアノが相当の勢いで売れ始めましたが、河合楽器の新しい経営者がメーカー直販制を敷いたことから、再度ヤマハにミキピアノ・オルガンの生産を委託するとともに、ヤマハとの特約店契約を結びました。
1969
昭和44年
西日本エリアに大型楽器店を出店
三木楽器は、市場の伸長に合わせ西日本各地に営業所を設けたこともあり順調に売り上げを伸ばしました。1960年に広島営業所をオープン、戦後すぐに新設した心斎橋店を1969年に、地上4階地下2階・当時としては画期的な大型ビルに建て替えました。
三木楽器 大阪・心斎橋店
三木楽器 広島営業所
1991
平成3年
バブル崩壊と高度成長期の終焉
しかし、高度成長の終焉、ベビーブーマーの子供のピアノ購入が一巡した1980年をピークにピアノの売り上げは年々減少をたどりました。
それに伴い、地方営業所の閉鎖を余儀なくされましたが、三木楽器では時代のニーズにあわせ、ギターやドラムなど軽音楽器の販売を中心とした店舗出店や音楽教室事業を拡大していきました。
2000年~
音楽に関する幅広い事業展開を確立
2000年代に入ってからは、大人向け音楽教室の新設やインターネットでの楽器販売、音楽イベントの企画・制作の充実を図り、従来からのピアノ販売・楽譜卸も含めた、音・音楽に関する幅広い事業展開を確立します。
創業200周年に向けて
2025
生まれ変わった三木楽器「開成館」

近年の社会問題となっている少子化・人口減少の影響を受け、ピアノの販売台数も大きく減少しました。
しかし、三木楽器として「ピアノ文化まで廃る事はない」という強い信念のもと、本店ビルの改装を実施しました。
オリジナルのイメージは残しながら、外装タイルの貼り替えなどを行うとともに、1階にピアノと楽譜に力点を置いた店舗兼ショールーム、2階に講習会やコンサートを開催できる小サロンを設けました。
昔から書籍のイメージが強かった「大阪開成館」の名前を引き継ぎ、ピアノ文化を発信するコミュニティスペース 「開成館」として三木楽器本店ビルの1・2階が新たに生まれ変わりました。

2025年の三木楽器 創業200周年に向けて、今後も様々な形でピアノ文化振興への取り組みを続け参ります。

大阪メトロ「本町駅」から徒歩6分
三木楽器 開成館
レッスンルームレンタル 営業案内
定休日
毎週水曜日
利用時間
10:00~19:00
住所
【三木楽器 開成館】
〒541-0057
大阪府大阪市中央区北久宝寺町3丁目3−4
最寄り駅
  • 大阪メトロ御堂筋線「本町駅」徒歩6分
  • 大阪メトロ堺筋線「堺筋本町駅」徒歩8分
  • 大阪メトロ御堂筋線「心斎橋駅」徒歩9分

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