時代を、国を、世代を超えて
三木楽器は2015年、創業190年を迎えました。
三木楽器の前身は江戸時代の文政8年(1825年)、大阪で書籍商として勢力のあった河内屋総本家から分家独立した「河内屋佐助」の貸本を主とする書籍業を祖としています。
山葉(ヤマハ)オルガンの西日本売捌所として楽器創業
1859年、農家出の友吉が8歳にして「河内屋佐助」に奉公しました。日本が新たな時代を迎える少し前の事です。友吉は時代のニーズを敏感に感じ取りそれを商売に転ずる商才に長けていました。商売熱心が認められ友吉は1884年に河内屋佐助の家督を継いで、四代目佐助となり、ヤマハの創業者 山葉寅楠は佐助の商才を見込んで自ら開発したリードオルガンを販売する西日本の元締めを依頼しました。
これが三木の楽器創業となります。(「三木」姓は初代佐助の郷里の姓)(ヤマハ創業は1887年、三木の楽器創業は1888年)
「鉄道唱歌」出版がヒット、音楽講習会を実施
「汽笛一声新橋を・・・」で始まる「鉄道唱歌」は今でも有名ですがこの鉄道唱歌を巧みなマーケティングでヒットさせたのは三木佐助です。これ以外にも「日本俗曲集」や「帝国軍歌」など音楽関連出版事業も順調に伸ばしました。また、今でも合唱の練習書として使われる「コールユーブンゲン」の翻訳権を取得し、出版したり、「関西音楽講習会」を実施するなどハード・ソフト一体の活動を展開しました。

オルガンからヴァイオリン、ピアノ、他楽器まで品ぞろえを拡大
山葉オルガン販売開始の翌年には当時国産化成った鈴木ヴァイオリンの販売も開始、そしてヤマハのピアノ生産開始(1900年)に伴いピアノの販売、更にはクラリネット・トロンボーンなど管楽器の販売も開始しました。
ピアノではスタインウェイピアノ総代理店にも(戦前)
日本で西洋音楽が隆盛になるにつれ欧州留学生も増え舶来楽器への需要も増大した事から、三木では1921年、当時名声の高かったスタインウェイの日本総代理店となって同ピアノの販売に取り組みました。
創業100年を目前に本店ビルを建築、3階にホールを開設
1923年末には木造だった本店を地下1階地上4階のモダンな鉄筋コンクリートのビルに建て替え、その3-4階にホールを開設、翌1924年1月より利用に供しました。翌1925年は初代佐助の創業から100周年にあたり、これを機に書籍の屋号であった河内屋玉淵堂を変更、合名会社とし新社名は「大阪開成館三木佐助商店」としました。こうして江戸末期から明治の激動の時代に一介の奉公人から身を起こし店を立て直し見事に時代に対応し経営してきた四代目佐助は新会社・新本店ビルの完成を見届けるかのようにして1926年に亡くなりました。
音楽家との交流と音楽書籍の発行
四代目佐助は日本を代表する音楽家・作曲家の山田耕筰とは彼がベルリン留学から戻った1914年より佐助が亡くなる1926年まで手紙のやり取りがあり、また耕筰が関連する書籍を三木楽器大阪開成館にて分かっているだけでも10点発行しています。
山田耕筰はまた、三木本店ホールを使って「西洋音楽講座」「作曲講座」などを連続して行いました。「海ゆかば」で知られる信時潔とは先に述べたコールユーブンゲンの翻訳を依頼した他分かるだけで10点を三木佐助又は大阪開成館より発行しています。他に「浜辺の歌」で有名な成田為三や、永井幸次などとの交流の中で名著を次々と発行しました。

三木オルガン、ピアノの誕生
ヤマハとの良好な関係はヤマハの創業者山葉寅楠の物故(1916)後も続いていましたが、1922年のヤマハ工場火災、関東大震災、1925年の日本楽器(ヤマハ)の労働争議等により生産力の低下をきっかけに関係を見直さざるを得なくなり、 後任社長の方針に疑問を感じてヤマハを退社した天才技術者河合小市が興した河合楽器にオルガン・ピアノの製造を委託し、1929年より三木のブランドでの販売を開始しました。(当時は河合は創業間もなく知名度があまりないため、三木の名が通りが良いと判断)その後、河合楽器と1930年に関西総代理店契約を結びました。1937年にはピアノの総販売台数が800台を超えたとの記録が残っています。

戦争と三木楽器
1937年までは右肩上がりであった三木楽器の業績も戦時に突入するとともに変調を来たし、1940年ではピアノの総販売数は前年比でわずか13%の51台となりました。1945年3月の大阪大空襲では船場から難波にかけて大火災が起きましたが、三木本店ビルはコンクリート造だったので火災は免れ、近所の住民の避難場所にもなりました。
戦後、高度成長・ピアノブームとバブル崩壊、戦略の組み直し
戦後は復興と高度成長でピアノが相当の勢いで売れ始めましたが、河合楽器の新しい経営者がメーカー直販制を敷いたことから、再度ヤマハにミキピアノ・オルガンの生産を委託するとともに、ヤマハとの特約店契約を結びました。

また、三木楽器は市場の伸長に合わせ西日本各地に営業所を設けたこともあり順調に売り上げを伸ばしました。

しかし、高度成長の終焉、ベビーブーマーの子供のピアノ購入が一巡した1980年をピークにピアノの売り上げは年々減少をたどりました。それに伴い、地方営業所の閉鎖、教室事業の集中、大人向け音楽教室の新設やギターなどの店舗販売の充実を図りました。

三木本店ビルの改装ー「開成館」
しかし、ピアノの販売台数は大きく減少したものの、三木楽器として「ピアノ文化まで廃る事はない」と考え、三木楽器本店ビルを改装し、オリジナルイメージを変更せず外装タイルの貼り替えなどを行うとともに、1階をピアノと楽譜に力点を置いたショールームにし、2階に小サロンを設け、そこでピアノ講習会やコンサートを行い、ピアノ文化に寄与して行こうと考え今日に至っております。書籍のイメージが強い「大阪開成館」から「開成館」の名前を貰い現在本店ビルの1・2階を開成館と称してピアノの販売、セミナー・コンサートの開催、ピアノ・バイオリン教室の展開を行っております。